ルクレーティウスの幸福観

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エピクロス派の詩人ルクレーティウスは、『物の本質について』(De Rerum Natura)と題する作品を残しています。その第2巻冒頭を樋口勝彦訳(岩波文庫)で見てみましょう。

「大海で風が波を掻き立てている時、陸の上から他人の苦労をながめていのは面白い。他人が困っているのが面白い楽しみだと云うわけではなく、自分はこのような不幸にあっているのではないと自覚することが楽しいからである。

野にくりひろげられる戦争の、大合戦を自分がその危険に関与せずに、見るのは楽しい。とはいえ、何ものにも増して楽しいことは、賢者の学間を以て築き固められた平穏な殿堂にこもって、高所から人を見下し、彼らが人生の途を求めてさまよい、あちらこちらと踏み迷っているのを眺めていられることである。

才を競い、身分の上下を争い、日夜甚だしい辛苦を尽くし、富の頂上を極めんものと、また権力を占めんものと、あくせくするのを眺めていられることである。」

嵐、戦争、富と名声を求める争い(cf.第4巻では「愛欲」も)等、魂の平安(エピクロス派はアタラクシアとよぶ)を脅かす要素が「ない」ことが、すなわち「喜び」である、という理屈を述べています。(ギリシア語でアタラクシアは、苦しみが「ない」の意味です)

「おお憐む可き人の心よ、おお盲目なる精神よ!このいかにも短い一生が、なんたる人生の暗黒の中に、何と大きな危険の中に、過ごされて行くことだろう。自然が自分に向かって怒鳴っているのがわからないのか、ほかでもない、肉体から苦痛を取り去れ、精神をして悩みや恐怖を脱して、歓喜の情にひたらしめよ、と?」

富や名声を求めてあくせくする人間はこのように批判されています。この点で、ウェルギリウスの「農耕賛歌」との関連が考えられますし、貪欲(avaritia)を批判する視点は、ホラーティウスにも受け継がれています。

「従って、肉体にとって必要なものは僅少にすぎなく、それも、それぞれの苦痛を取り除いてくれるものでさえあればいいのだ、ということがわかる。

また、よしんば豪奢な臥台(がだい)をいくつもならべることができ、時には満足を覚えることがあろうとも、たとえ夜毎の酒宴を明るく照らすために、燈火(とうか)を右手にささげている青年たちの立像が、幾多金色燦然として家中に飾られているようなことはなくとも、

客間が銀に光り、金に輝くようなことがなくとも、または鏡板をはめこみ、黄金を張った天井が、手琴の響きを返していなくとも、これ自然そのものが要求するところのものではない。」

先行する箇所では、詩人の考える間違った生き方を暗闇にたとえていましたが、ここではそれが黄金のイメージで表されています。もちろん、痛烈な皮肉です。ちなみに、第三巻序歌では、心の不安、イコール暗闇に光りを与えてくれるエピクロスの教えが、やはり黄金のイメージで表現されています。 

「これとは違い、柔い芝草の上に、小川のほとりに、高い樹の枝をひろげた下に、殊に天侯がほほ笑みかけ、一年の季節が緑の草に花をむすばせ、露をふくませる頃に、仲間をつどい、長々と横たわり、費用はかけずに楽しく身体を休めることはできるのだから。

それに、色あざやかな綴錦や、赤い紫の織物の上に、身を横たえている方が、貧者の毛布にくるまって寝ていなければならない場合よりは、(病気の〕高熱のとれ方がより早いわけではない。」

ここで示される牧歌的な安らぎのイメージが、ウェルギリウスの「農耕賛歌」に反映していることが従来指摘されます。

ウェルギリウスが、この箇所を念頭においていることは、間違いないでしょう。しかし、両者を読み比べるとき、私たちは、後輩ウェルギリウスが両者の「相違」に目を向けるよう促している点に気づきます。

その相違点についての分析は、拙論 をご参照下さい。

Lucretius

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この記事を書いた人

ラテン語愛好家。京都大学助手、京都工芸繊維大学助教授を経て、現在学校法人北白川学園理事長。北白川幼稚園園長。私塾「山の学校」代表。FF8その他ラテン語の訳詩、西洋古典文学の翻訳。キケロー「神々の本性について」、プラウトゥス「カシナ」、テレンティウス「兄弟」、ネポス「英雄伝」等。単著に「ローマ人の名言88」(牧野出版)、「しっかり学ぶ初級ラテン語」、「ラテン語を読む─キケロー「スキーピオーの夢」」(ベレ出版)、「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)。

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